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イエメンより帰国し念願の日本ライフを楽しんでいます 読んだ事、考えた事などアップしますのであなたの考えも聞かせて下さい。 国連開発計画イエメン事務所で勤務中に書きはじめ、帰国して医学部受験勉強、2015年5月1日からは熊本市議会議員の悲喜交々を綴り中

熊本市議会委員会室に於ける暴行事件及び 3月19日付讀賣新聞に対する決算

熊本市議会委員会室に於ける暴行事件及び3月19日付讀賣新聞に対する決算

I 事実経過
 1. 暴行事件についての事実経過
 2019年2月26日(火)予算決算委員会終了直後、隣席の女性議員(今回は県政にくら替え予定)より私に対して唐突に「質問を真似ていると云う話があるけど、やめてくれる!」と云う因縁としか言いようのない発言がありました。主語も述語も目的語も皆目解らない彼女の言葉に唖然としていると、直ぐさま議会運営委員長が来たので、私は議会での私の質問で他人の意見を剽窃した事は一切ない旨を説明していると、その女性議員はニ度にわたって私の右胸を強打しました。
 私は、この「事件」は議会の権威に関わる重大な案件であり、議会が自から解決すべき問題と捉え、「要望書」に「診断書」を添えて各会派、議会運営委員長、議長に提出しました。その結果はどうでしょう。各会派はしらぬ顔、議長は個人的な問題へのすり変え、委員長(今回も北区から市政に再挑戦予定)にいたっては「告訴でも裁判でもしろ、『私達』の証言によってはそちらが不利になるゾ」と恫喝する始末。物事の現象のみを見、単純化したとしても、いったい誰が加害者で誰が被害者なのでしょうか?
 従って、私にはこの事件を市民の皆さんに知って貰う為には記者会見しか残された道はありませんでした。これが事実です。

2. 讀賣新聞の記事について
 讀賣新聞3月19日(火)付朝刊に私の政務活動費についての記事がかなり大きく出ました。ついで翌20日(水)地元紙の熊本日日新聞にも同様の記事が讀賣を追いかける様にして掲載されました。記事を注意深く読むと、例によって例のごとく議会事務局の見解や「専門家(?)」の意見を短く載せ、巧妙に中立を見せかけています。
 しかし、次の疑問を生じさせるのは明らかです。それは、第1に、何故今の時期か?第2に、議会も事務局も1の暴行事件については何故見解を出さないのか?第3に、各報道機関が「女性議員をもっと増やそう」と言っているのと矛盾しないのか?最後に、讀賣新聞は3月24日の「セクハラ行為で讀賣記者処分へ」の報道をいったいどう説明するのか?

II. 女性に対する差別の本質
 女性に対する差別を理解する為には、その現象形態に惑わされることなくその本質を理解することが大切です。女性に対する差別の本質は決して人間関係に求めるのではなく、社会関係に求めなければなりません。即ち、近代民主主義の基底をなす、自由、平等の権利、すなわち市民的権利(特に就職の機会均等)がいまだに行政的に不完全にしか保障されておらず、その多くが「相対的過剰人口、中でもその中の潜在的過剰人口」に位置付けられており、社会的、歴史的必然性を以って差別されていることが唯一の本質です。例えば、今話題の「毎月勤労統計調査」(熊本県統計年鑑)を見ると次の表のようになっています。

2019032723022653d.jpeg


この表で気付く事は、H27年から急に女性の月給が上昇傾向を示しています。何故でしょうか?いずれにしても、この表は女性が相対的過剰人口の役割を担っている動かぬ証拠には変わりありません。

 『存在が意識を決定する』とは社会科学のイロハですが、上述したような物質的根拠が明らかになると、社会意識としての女性への差別観念が存在する事も明らかになります。社会意識としての女性に対する差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活化した伝統の力と教育によって、自己が意識するとしないとに関わらず、客観的には空気を吸うように一般大衆の中に入り込んでいます。このような社会意識としての差別観念が一度人々を捉えると、社会制度が変わっても、尚、根のない花が一定期間持ち堪えるように、頑強に残ろうとする性質を持っています。
 また社会的意識は、社会的心理をも含んでいます。社会的心理は、ある種の気分の他に情緒(じょうしょ)、既成の習慣、伝統の力、同情と反感などが含まれています。
従って、差別一般を論ずる時は、一つ一つの差別の物質的根拠を明らかにする必要があります。即ち、その歴史性、社会性に位置づける必要があると言わなければなりません。そうでないと、現代社会で蔓延している「差別のごった煮」が現出し、却ってその解決が遅れる結果となるからです。

Ⅲ. 結語に代えて
 2019年3月19日付讀賣新聞の記事は極めて巧妙に書かれている事は前述しましたが、はからずもⅡの女性に対する差別の本質を裏付ける記事となってしまいました。即ち、女性の解放に対して、客観的には否定的影響しか及ぼさない内容でしかないからです。また、2019年3月24日付朝日新聞朝刊第37面には「セクハラ行為で讀賣記者処分へ」と云う記事が小さく掲載されています。これこそ「問うに落ちず語るに落ちる」を地でいくものに他なりません。
 ところで、昨今「男女共同参画社会」「女性が輝く社会」が声高に叫ばれています。しかし、前者については、その内容が女性の労働力が正当に評価される事、即ち女性の市民的権利の完全な保障でなければなりません。ですから、このスローガンは「男女平等社会」が正確な表現です。また、後者については、女性が商品として扱われるのではなく(特に性の対象としての商品)、「女性の『労働』が輝く社会」の実現でなければいけません。
 “Struggle is Beauty”(闘いこそ美なり ※―緒方ゆうか訳―)とは荻原碌山の言葉。私もこれに倣って、女性解放の運動に一生携わる覚悟でいますが、その過程では色々な実践上の誤りを犯すでしょう。しかし、社会は、人間は、その実践上の誤りからしか学んでこなかったのですし、学べないのです。

【追記】
 私は今、ある小学校教諭の生徒に対する体罰問題に取り組んでいます。そんな折、マスコミは子供に対する人権侵害を連日のように報道しています。何故こんな事が頻繁に起こる事になったのでしょうか?流行でしょうか?決してそうではありません。やはり、この問題も、それを生み出す物質的根拠に目を向けなければなりません。現像的には、現代社会の矛盾(家庭の崩壊、学校教育の崩壊等々)が、大人対子供、子供対子供に反映しているのです。しかし、その物質的根拠は、社会関係を基礎とする「貨幣の物神性」によるマイナスの符号を帯びた人間関係を生じさしめ、程度の差こそあれ「地位と金持ちこそ人生の目的」が当たり前となってしまっているのです。(尤もその反作用もあるにはあるのですが・・・・)。
 「子ども自身が言葉では表現できないでいる彼らの状況を、言葉で明らかにしてやり、如何にすべきかを、一緒に考えてやることが、必要事の一つ」とは、故近松良之氏の実践から得た言葉です。私たちの運動も、この教えに沿って現在取り組んでいる問題と私達の基本的な考え方を「追記」としてここに記しておきます。

〈主な参考文献〉
朝田善之助著「差別と闘いつづけて」      
三一書房編「社会科学用語辞典」
「熊本県統計鑑」                 
南安曇教育会刊「荻原碌山」
モルガン著「古代社会」              
新村出編「広辞苑第四版」
H・ポリット著「婦人論」
近松良之著「園長室から」

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  1. 2019/03/27(水) 23:25:45|
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